2016.11.22

放下著(ほうげじゃく)

 

Hogejyaku02

 

厳陽(げんよう)尊者という修行者がある時、趙州(じょうしゅう)和尚の所にやって来て問います。「一物不将来(いちもつふしょうらい)の時、如何(いかん)」私は長い修行を続けて分別や執着を離れた本来無一物の境涯を得ました。この後は如何にすればよいのでしょうか。心には何の一物も無いと言いながら慢心が見え隠れし、まだ分別や執着に囚われている厳陽を趙州は見て取ったのです。趙州は答えます。「放下著」、捨ててしまえと。厳陽は趙州のこの老婆心にまだ気付きません。「既に是れ一物不将来、箇(こ)の什麽(なに)をか放下せん」私はすでにすべてを捨て去り無一物、この上何を捨てろとおっしゃるのですかと続けます。ついに趙州は「放不下ならば担取し去れ」と突き放します。捨てることが出来ないのならば、その無一物とやらを担いで帰れと。ここで初めて厳陽尊者は無一物と言いながら、それをしっかり背負っていることに気づきます。

 

「放下」とは手放す、荷物を下ろす、下に置くという意味で、「著」は命令の助詞で放下の意を強めます。趙州の「捨ててしまえ」は、善悪、是非、自他などあらゆる相対的な観念を完全に捨て切り、そしてその観念自体も捨て去ってしまえと言っています。禅の修行道場では新参の者は先ず、この中国唐代の禅僧、趙州従諗(じゅうしん)和尚の公案「趙州無字」で「有」と「無」の相対的な観念にとことん悩まされます。

 

団塊の世代と言われる人達もすでに定年を迎え、心身をリセットして旅行や趣味に時間を費やす人が増えました。しかし長年に身についた経験や肩書をそう簡単に捨てることはできません。子供たちが初めて見る景色や遊びに目を輝かして無心になるようにはいかないのです。知らない間に私たちは分別心や執着心に縛られているからです。そしてこれこそが自身を迷わせ、悩ませる根源です。無用な荷物は下ろして、置いたということもさえも捨て切る。建仁寺のご開山、栄西禅師は「大いなるかな 心や」と言われました。無用なもので心を狭くしていないか。折角の頂いた自身の心、大いに広く自在に使っていきたいものです。

 

 

注・(ちょ)は「著」で(ちゃく・じゃく)は俗字の「着」で表わすようになりましたがここでは本来の「著」を使います。また「著」の草冠は草書体にすると「着」と同じになります。